ルーズリーフ

ひとりごとを書いています

「アタリマエ」に死ぬがよい

次は、その次は、毎回思うのに毎日区切れもなく過ぎていく。「卒業したら」「成人したら」ずっと思っていたことだったけれどきっとどこまで行っても無理なのだろう。これは「どうにもならない」ことで、受け取り方を捻じ曲げてどうにかしていないといけない。でないと今すぐに大きな声を出して転がり回ってしまう(しない)

気付くのが遅い。だから、どうせ「それだけでは駄目」なのだから、とりあえずなんとかしておくべきだったのだ。それが出来ないならせめて行けるときには楽しんでいたらよかったのに。何もかも中途半端で駄目。シェルターのような地下でも漠然とした不安と投げられた言葉がぐるぐると頭を回り、振り切ってすがるように豚様の宗教に参加した。

これが終わったら、あれが終わったら、と思いを馳せるのに本当は終わりなんて来ないことはずっと分かっている。自分が終わらせなければ終わりなんて来ない。他に解法がない。だから高校を卒業したらしぬつもりだったし、豚様に出会ってからは行けるときにはなるべく行こうとした。その熱が今自分にないことに驚いているしかなしい。かつてのように隙間をついては抜け出していく自信がもうない。疲れた。
これは私のせいなので、あの人にもその人にも、好きな人たちに見離されてアタリマエに死ねばいいと思う。だけど嫌だから最後まで笑っていたい、のに

(それでも母が見抜いたと思っている何十倍もの回数彼らを見に行けたことは誇りに思う(誇れることではけしてない))

きっと私が思っているより世界はかなしくないし私が思っているより私は誰かを傷つけている。首輪を繋ぐように意識を引き戻していないと変な行動を起こす。昨日だって逆向きのエスカレーターに完全に乗るまで気付かなかった。そんなことがたくさんあってこの先が不安で仕方ない。
私などは馬鹿だから常に目を凝らしていなければ簡単に流されていく。抗った数年間はこのまま何年も経った後の私にもただの暇潰しとされてしまうのだろうか

以前ゴリラの最後で思わずわっと両手を上げてしまったことがある。すごく良いゴリラでとても嬉しかったのだと思う。しかしゴリラはいつもしっとりと終わるはずなのですぐに顔がかあっとなって背中が冷たくなったことを憶えている。あのとき泣かなかったのは確かに豚様のお陰だったのに


夢見る力は強いもので、今でも私にとっての豚様は救世主であったりする。更新があった日の、同じような時間に車で三ツ沢公園を通りかかっていたことが嬉しかった。ただ再録を何度聴いてもこわいので、明日やっと新曲を買いに行く(つもり)
最近なんとか人として紛れるための服をたくさん購入した。襟を正すような気持ちは持てない。